2015年12月2日水曜日

覚書 意志(Will)の時期の発達:2歳〜4歳 その④

発達課題:私には物事や方向性を選択する意志と行動する力を持つ権利がある.

この時期の発達テーマは、「力(power)」です。また、この時期の子どもたちはとても愛他的でもあります。例えば、親の手伝いを一生懸命にしようとします。

さて、この時期に、子どもが何らかのショッキングな体験をもつとしましょう。その子が大人になると次のような偏りが性格構造に生じます。

意志の前期に該当する人の特長のうち、際だったものを少しだけ紹介します。

・自己批判、自己犠牲の人.他の人を喜ばし奉仕するために、自分自身の力と選択の感覚を諦めている.
・白黒思考。二極の間がないので、一つのことで注意されると自分が全面否定されたとすぐ思う.
・完全主義者であり、「ネバナラナイ」との思いが強い.
・愛他的なのに自分には何か足りなくてダメだという感じをもっている.

意志の後期に該当する人の特長のうち、際だったものを少し紹介します。

・批判的な人。人を裁いていると自分が指揮をとっているように感じる.
・人のせいで自分は苦しんでいるとの被害者意識が強い.
・問題が生じたり上手くいかないことがあると、全て人のせいにする.
・全てのことに儀式みたいなルールを持っており、よく動くが自分流.(例:お茶はこれが良い。このようにお茶をいれて、このように飲むものだ.)

性格構造については、これまでのブログで説明してますのでそちらをご覧ください。この覚書をふくめて、これまでに胎内3ヵ月目から4歳までの発達課題を取り上げています。

例えば、いつも引っ込み思案でおとなしすぎる人、いつも出しゃばりで騒々しすぎる人、すぐに絶望的になる人、人が信頼できない人、自尊心(Self-worth)が低く自信がもてない人、助けを求めることが出来ない人、お世話焼き過ぎる人、コントロール過剰の人、批判的な人、白黒思考で完璧主義の人、アグレッシブ(aggressive, 攻撃的)な人など、このように偏った人に共通する性格の「バランスの悪さ」は、4歳までの生活に遠因があります。

4歳までの生活が幸せに生きることの基盤となる。このように言っても決して過言ではないと思います。ワークライフバランスを考える上で、見落としたくない、あるいは優先順位を間違えてはならないことかと思います。

親の責任は、幸運な次世代を育てることかと思います。そのための大きなヒントが「ボディナミック性格構造」にあります。


【注意】ボディナミックスCharacter structures(性格構造)について詳しく知りたい方は、HPの[参考文献・資料]を参照してください。このブログでは、私個人が理解していること・語りたいことを書いています。ご了解ください。

2015年11月7日土曜日

覚書 自律(Autonomy)の時期の発達(8ヶ月〜2歳半) その③

 さて、何らかの依存症(アディクション)を持つ人との面談では、この時期の体験がまず気になるところです。依存症(アディクション)の定義の一つは、「何か心地よいことへの逃避」です。

 大人になって何事にも好奇心がもてず衝動が感じられない人は、アルコールや薬物、ギャンブルなどで空虚さを埋めたくなるからです。また、衝動を止められて気分の悪い人も何か心地よいことをつい求めてしまいます。

「性格構造」の形成を具体的に考えていくとき、乳幼児時期の母子関係の重要さを認めざるを得ません。なお、12歳までに性格構造はできあがるとボディナミックスでは考えています。


【注意】ボディナミックスCharacter structures(性格構造)について詳しく知りたい方は、HPの[参考文献・資料]を参照してください。このブログでは、私個人が理解していること・語りたいことを書いています。ご了解ください。

覚書 自律(Autonomy)の時期の発達(8ヶ月〜2歳半) その②

 健康に生まれた600名の赤ん坊たちの追跡調査をまとめたものが、ボディナミック「性格構造」と呼ばれるものです。

 自律の時期を例に挙げます。この短い期間の前半分の時期に幼児にとって何らかのショッキングなな体験があると「ある偏り」を持つようになり、後半分の時期にショッキングな体験があると「また別の偏り」を持つようにとなります。

 さて、この時期には、どのような性格の偏りを持つようになるのでしょうか。このような体験を持つ幼児が大人になっていくと、どのような人になるのでしょうか。

 少しだけ例をあげてみます(資格講座の学びより)。

前期タイプの人の偏り:衝動や感情を簡単に失ってしまう。空っぽでポカンとした状態に入ることがある。居心地の悪いことがあると行動で逃げる。助けてもらうと言うことが分からない。衝動は強いがそれが何なのか認識が持てない。何か上手くいかないと、自分が悪いと思いがちである。批判に弱い。他者のコントロールを敏感に感じ取る。外からの刺激がないと反応しない。人の衝動にはすぐに気づくので、人が何をしたいのかはすぐに分かる。人の手助けは上手であるが、自分から「助けてください」というと仕事が増えるようでなんだか面倒くさい。

後期タイプの人の偏り:心地よくない感情を避けるために、居心地が悪いことがあると言葉で逃げる。助けてもらう自分には価値がなく、自分には助けはいらない。主導権を握って行動していないと自己価値がない。おしゃべりで多くの衝動を持っている。失敗しても絶対にめげない。他の人に「そうですね」と同意したら自分がなくなる感じがする。自分の問題を否認する達人でもある。いつも活動的で忙しくしている。目の前に見えないものは頭からなくなり、恩を忘れやすい。自分に自信が持てない。人とつながると自分を失うという恐れを持っており、コミットメント(人と関わり合うこと)/約束事(友情・結婚・住居・役職・恋愛など)ができない。あらゆる状況をコントロールしたい。親密な関係に入る場合には、「私がいないとあなたは生きていけない」ようにコントロールする。

 偏り具合にはさまざまな程度があるかと思いますが、思い当たることがある/ないでチェックすると、大雑把にどちらタイプか分かるかと思います。

 もちろん、偏りのないバランスの取れた状態(=健康的な状態)もあります。「自分自身の衝動や感情に気づいており、そのことを知りながら行動できる」ならば、健康的な状態の人と言えます。


【注意】ボディナミックスCharacter structures(性格構造)について詳しく知りたい方は、HPの[参考文献・資料]を参照してください。このブログでは、私個人が理解していること・語りたいことを書いています。ご了解ください。

覚書 自律(Autonomy)の時期の発達(8ヶ月〜2歳半) その①

 この時期の幼児は好奇心と衝動を持つようになり、「あっ、あっ」といって人差し指で何かを指しては、それによたよたと向かっていきます。親は、幼児の後を追って動き回り疲労困憊します。転んで擦り傷を作ったりして目が離せない時期です。

  その子の好奇心と衝動をほっておかれたり、ストップをかけられるとどうなるでしょうか。その幼児は、衝動を失って諦めてしまうか、衝動を抑え込み不機嫌になります。

 ボディナミックス(Bodynamic system)では、この発達時期のテーマを「衝動と好奇心」と呼んでいます。繰り返しますが、「私には好奇心と衝動を持つ権利がある!」というのが8ヵ月から2歳半までの発達課題です。


【注意】ボディナミックスCharacter structures(性格構造)について詳しく知りたい方は、HPの[参考文献・資料]を参照してください。このブログでは、私個人が理解していること・語りたいことを書いています。ご了解ください。

2015年11月4日水曜日

覚書 スピリチュアリティにいて:一つの考え方 (追記2)

 スピリチュアリティに関する一つの考え方を明らかにしておきたい。

スピリチュアリティの定義の一つに、「スピリチュアリティは、人であれ物(もの)であれ、人生で最重要と思っていることとのかかわり方に関係が見られる」というのがある。

 この定義は、アディクションなどの行き詰まり状態からの回復と成長といった現実の問題との関連において、体験的にスピリチュアリティの理解を深めていく上では有用であるが、スピリチュアリティとは何かという意味を求めているときの答えとしては不十分であろう。しかし、この定義の意味する事は、次の考え方の中で大きな意味を持ってくる。

 スピリチュアリティには、三つの領域との関係を人がどのように持っているのかということと関連が見られる。その三つの領域とは、「自分自身」と「他の人々」と「宇宙」である。また、「霊的成長とは、神と人と私の関係がきちんと三角形にできることいわれる*」とも表現される。この霊的成長の霊的とは、スピリチュアルと同義語である。つまり、スピリチュアルに成長していくという意味である。

 このように人の意識には宇宙(神)との関連が見られる、あるいはその反映がみられるととらえることで、スピリチュアリティは身近な存在となってくる。また、このようにスピリチュアリティをとらえていくと、スピリチュアリティは宗教と同義ではないことも浮上してこよう。


* この三角形の関係について、また回復と成長の歩みについては、「ホームカミング」の松尾セシリア女史から直接的また間接的に多くの学びを得ました。ここに記して、深く感謝申し上げます。

覚書 スピリチュアリティについて:日々の生活との関係 (追記1)

 スピリチュアリティとは、いったい何を意味しているのであろうか。この用語は宗教との関連において使われるもので、教育や自己覚知とは関係のないことなのであろうか。
 スピリチュアリティという用語は、宗教的と同義ではない。また、私たち一人ひとりの生活と関係がある。

 例えば、万人が逃れる事のできない問題として、死の存在がある。この事は、中年を迎えると現実的な問題として意識されるようになる。その思いは追い払っても、逃げ出しても決して離れていく事はない。そして、人は受け入れる事のできない出来事や現実の中で苦悶する。

 死は究極の喪失体験となるが、死なれたり死んだりすること以外にも、持っているものを失うという意味においては、若さや健康、体力、美しさ、家や財産、地位、名声、能力、信頼、愛情、恋人、家族、評判、仕事など枚挙にいとまがない。


 このような死やすべての人間という存在に伴う問題や苦しみは、その出来事や事実を認めて「受け入れていく」という事以外に解決の道はない。受け入れることができるまで心の平安は取り戻せないのである。そして、この受け入れていくことのプロセスは、スピリチュアルなプロセスといえよう。

覚書 スピリチュアリティについて:七つの意識世界 その③

 このようにスピリチュアリティをとらえていくとき、自分自身のあり方に目を向けて何に囚われているのか、あるいは人生の最重要事項は何かと自分自身への問い掛けを続ける事で、どのレベルの意識世界の住人であるのかが明確になることであろう。

 また、意識世界が広がっていくさまをイメージするとき、それは膨らんでいくゴム風船のようにも思える。このことを、人とのかかわりを通して眺めるとき、意識世界の広がりは、一人の孤独な世界から他の人々とつながっていくプロセスであり、さらに自然や宇宙(神)とつながっていく自然で調和に満ちた状態としてとらえることができよう。


 以上のことを考えるならば、例えば、出世しても預金高が増えてもそれだけではいっこうに幸せが増えないことの謎が解ける、かと思う。この謎解きに興味があれば、どの意識世界の住人かを再確認してみたいものである。

覚書 スピリチュアリティについて:七つの意識世界 その②

 この意識世界は、その広がりにより七つのレベルにわけて理解できる。それら七つの「意識世界」を次にまとめておく。

 「生存本能 (survival)」(食う、寝る、セックスなどのことが人生の最重要事項の意識世界)。「神経反応 (passion)」(心地よさを求め、心地よくないものから離れることが最重要事項の世界。好き、好きでない。暖かい、暖かくないなど何であれ心地よいものに寄っていくのである)。「エゴ/マインド (ego/mind)」(我欲が強く、策略を講じては「神経反応」と「生存本能」を保持しようとする。したがって、力による競争の世界でもある)。「受容(acceptance)」(自分自身や人の長所や短所、弱点を認めて受け入れていくことのできる意識レベル)。「理解 (understanding)」(苦しみや痛みの意味やメッセージを知っていこうとする意識レベル)。「愛 (compassion)」(苦しみを人と共にすることのできる意識レベル)。「統合 (unity)」(いろいろな“自分”が統合され、等身大で自然な自分自身といえる存在)。短くまとめると、以上が七つの意識世界である*。


* これらの意識世界の解釈は、回復施設ホームカミングの松尾アンドリュー氏と松尾セシリア女史から学んだ事をもとに再構成したものです。お二人に感謝申し上げます。

覚書 スピリチュアリティについて:七つの意識世界 その①

 「スピリチュアリティ」や「スピリチュアルな成長」を知的にどのように理解すれば良いのであろうか。人の目には見えない世界をどのように理解していけば良いのか。人の意識と宇宙(神あるいは霊魂)とは関連があるということを手がかりとして考えてみたい。

 スピリチュアリティを理解していく一つの視点として、人のあり方と行動を眺めてみることは可能であろう。そこで、ある人が「ある意識」をもって住んでいる一つの世界である、とスピリチュアリティを理解するなら、これら二つ関係は明確なものになってこよう。つまり、ある「レベル分けが考えられる意識世界」があり、その中のどこにその「ある意識」が存在しているのかが分かるなら、意識世界における位置関係も明らかになろう。


 ここでの「ある意識」とは、「人生で最重要」と思っていること、つまり、そのことを意識していようがいまいが、我々一人ひとりがもっている価値観のことである。自分自身と他の人々、宇宙(神)との関係を客観視することで、「意識世界」における存在場所も明確なものとなってくるのである。

2015年4月19日日曜日

ケース 人としての成長に向けて⑦


 このことは、鬱から抜け出した後に始めた援助者としての訓練のなかで体験した大きな恵みの瞬間であった。その時、彼女は初めて自分自身の傲慢さを知り、謙虚さに立つということの意味を実感した。

 またその時、キリスト教で昔からいわれている「7つの大罪」の意味を知り「自己満足(自分のニーズの充足)」に生きるという「自分中心の世界」を離れていくことの意味を実感した。そして、自助グループにも通うようになった。

 このことを意識世界の側面から眺めると、K女史の回心におけるこの体験は、「生存本能(survival)」「神経反応(passion)」「エゴ/マインド(ego/mind)」という意識世界からその先に連なる意識世界の広がりの中に入っていく大きなきっかけとなった出来事といえよう。


 また、自分が神であるかのような傲慢さと支配欲でもって生きることを止めて、自分を超える偉大な存在と彼女自身の位置関係をとらえ直すということが、同時にかつ瞬間的におきたことは、彼女が体験した一つの奇跡であり「恵み」であるといえよう。それまでのように知識にふれて学び取ったことではなく、すべてのことは思いがけず「与えられたこと」であった。(完)

ケース 人としての成長に向けて⑥


 さて、彼女は抜き差しならない「鬱(depression)」の回復から数年経過して、アディクションからの回復と成長の施設において「カウンセラー・トレーニング」を開始した。

 そして、インターンシップに入ってから4年目のことである。インターンとして施設の環境整備を行いながら、彼女は、ふとある思いに囚われた。「合宿トレーニングの他にインターンシップだけでも850時間ものトレーニング期間がある。施設は遠距離にあり飛行機代もかかる。休暇中でレジャーを楽しんでいる同僚をもいるのに自分は何年も同じことを繰り返しているばかり。今やっていることの意味は何だろうか?」このことは、その時に持った正直な思いであった。


 そしてその思いの中で、廊下の壁を拭きながらふと「この中に何が入っていますか?」という問いかけが彼女の中から湧き出てきた。それに答えて、すぐに「この中に愛が入っていますように。この愛が伝わっていきますように」という祈りのような言葉が思いがけず自分の中から聞こえてきた。その言葉と同時に、胸の奥と腹の深いところが動き、そこから熱い涙が湧き上がってきた。(つづく)

2015年4月18日土曜日

ケース 人としての成長に向けて⑤


 鬱状態となって現れでた彼女の行き詰まりは、劇的に改善されていくのであるが、鬱から抜けでたという喜びのなかで「自己満足」がその後数年にわたり続くこととなる。自己満足とは、自分自身は満足するものの他の人には思いや行動が向かない状態のことである。

 そしてまた次第に、彼女は内面に目を向けるという方法によって教師としてまた援助者としての「力(power)」をつけていきたいと思うようになっていくのであった。まさにこの状態は、比較と競争の中で「力」を求めるという、あくまでも自己中心の世界といえよう。意識世界でいうなら、「生存本能(survival)」「神経反応(passion)」「エゴ/マインド(ego/mind)」ということになろう。元気を取りもどして教師としての活動をしていても、彼女の長年の「ものの見方」と他の人や物事に対する「姿勢」はさほど変えられてはいなかった。ただ彼女の心の中では、ある意味で大きな「地殻変動」のようなことが起き続けていたのである。


 その地殻変動とは、自分自身のなかであたかも冷凍状態であったような肯定的また否定的な感情が溶け出していくことであり、さまざまな思い込みに対する再検討と再構築が知的レベルと情緒レベルにおいても起きていたと思える。そして、自分自身にとどまらず他の人たちとのかかわりやその時々にもつ感情や思いも変えられ続けていたのである。(つづく)

2015年4月17日金曜日

ケース 回復への手がかり④


   さて、彼女が取り組みの目をまず向けたことは、彼女自身の父親と母親のことであった。「どのような人か、またどのような出来事がありどのような思いをもっているか」といったことを、父親と母親それぞれについて書き出した。そして、書き出したものを援助者とグループの仲間の前でそのまま読み上げ、フィードバックをもらう数回の機会を得た。「己を知る」具体的な取り組みの始まりである。


 その作業(セッション)を終えたとき、彼女をあれほどまでに苦しめ続けていた「不安」がなぜかその姿を消していた。また、同時にクリスチャンとしての信仰に目を向けるきっかけも得ていた。それは、「自分は何かに支えられている」との実感を伴う体験に恵まれたからであった。


 このことが起きたのは、取り組みを始めてからほんの数日間後のことであった。奇跡が起きたことのように思えるこの出来事は、彼女の中で正真正銘の変えようのない「事実」なのである。そして、その後「不安」の翳りのようなものを感じることが時々はあったものの、その翳りの正体を知っていくことを通して、その「事実」の意味がさらに明らかなものとなっていくのである。(つづく)

2015年4月16日木曜日

ケース 回復への手がかり③


 さて、不安とストレスの中で心身を消耗し続ける中で、元気さを装うことにも疲れ始めた頃、回復に向けての転機が訪れることになる。言葉通り、日ごとに身動きできなくなって行くのであるが、その時に神が彼女に差し伸べた手は、ある一人の回復中のアルコホーリク(アルコール依存症者)を通してであった。

 その行き詰まりに陥る数年前にたまたま知りあって友達となったその人物の導きで、彼女は自分自身に目を向ける取り組みをする機会を得ることとなったのである。それまでの知識やスキルに助けを求めることに疲れ果てており、その先に希望が見いだせないことを感じ取っていたこともあるが、外側ではなく内側に目を向けていくことの新鮮さに心を引かれていた。


 彼女には、新しいものには心を引かれるという傾向がある。それは、そのなかに人との競争に打ち勝っていく「力(power)」を感じ取るからなのである。このように、彼女にさし伸ばされた手を握る勇気はあったものの、その時点での動機としてはさまざまな欲(自分のニーズ)がみられる。しかし、ともかくこのことが、彼女のその後の回復と成長の大きな足がかりとなっていくのである。(つづく)

2015年4月15日水曜日

ケース K女史のプロフィールと行き詰まり②


 彼女の心を覆い尽くしていたのは、一言で言うなら「不安」であった。心の中の思いを家族や同僚や生徒たちに隠すことに懸命になればなるほど、不安は膨らみ、同時に身体も精神も消耗していった。人に本当の自分の思いを知られたくないとの思いが強く、医者にさえ助けを求めることを拒み続けた。そして、ますます人から離れていくことで、孤独感にも襲われるようになった。

 そして、定年までの年数を数えたとき、それからの約二十年間をとても持ちこたえることができないと弱気になった。生き恥をさらす前になんとか人知れずこの世から消え去ってしまえないものか、とも思うようになっていったのである。生活の中から楽しみや喜びが感じられなくなり、不安の中でまさにベールをとおして外界を見るような感覚をもつようになり、頭の中で回り続ける考えは、いつも「自分」のことばかりであった。食べ物も「うまい」と思うことはなくなり、鏡の中の自分の姿も貧相さがましていった。

 また、彼女は、カトリックのクリスチャンとしての洗礼をうけていたが、当時の彼女と信仰との間には大きな隔たりがあった。その苦しみを解決してくれるものとして、信仰は意識に上ってくることもさえもなかったのである。

 以上が、中年の危機を迎えた当時のK女史の姿である。(つづく)

2015年4月14日火曜日

私の覚書 ケース(事例) K女史のプロフィールと行き詰まり①

あるケースを紹介する。
「未完の物語」が終わると人はどのように変わっていくのか。「人は変えられないが自分は変えることができる」ことの一例である。

ケース K女史のプロフィールと行き詰まり①

 K女史は、現在53歳である。いまも10年前と同様に教師を続けており子供たちもそれぞれ元気に成長している。行き詰まり当時は、年齢43歳の高校の英語教師であった。結婚しており、3名の小学生の子供がいた。きまじめで内向的な性格であり、団塊の世代に属していた。彼女のそれまでの人生は戦後のベビーブームに始まる過激な競争の連続であった。受験戦争といわれた時代を懸命に乗り切り、紆余曲折を経て教師となり結婚して家庭も持った。そして、彼女なりにまじめに一生懸命に生きてきたのであるが、中年期を迎えて「鬱状態(depression)」で苦しむこととなった。


 この苦しみのなかで彼女は、教師としてそれまでに受けた国内外におけるさまざまなトレーニングや研修、精神医学や心理学、カウンセリング関連の諸知識によりその解決を図ろうと、いつもの懸命さで回復の努力を続けた。しかし、彼女の胸に重くのしかかるようないやな感覚は膨らんでいくばかりであり、エネルギーレベルも低く、何をするに身体的・精神的に苦痛を感じていた。それでも、いつもの生活をいつものように暮らすことに懸命であった。教師としての仕事も明るくさわやかに続けなくてはならないと頑張り続けていた。(つづく)

2015年4月13日月曜日

私の覚書 性格傾向(偏り)の一つ

私の性格構造の偏りは多々あるが、その中で特に改めたいと意識していることがある。それは、価値と規範に対する姿勢(Stance Toward Values and Norms)の偏りである。

ボディナミック自我機能の一つにPositioning(ポジショニング、位置)がある。この自我機能の意味するところは、a. 人生に対する姿勢、b. 力を維持すること、c. 自分の足で立つこと、d. 価値と規範に対する姿勢、e. オリエンティングである。

私は、価値観や規範に関することを語ることが弱い。人を恐れるあまり、自分の価値観やこうだと思う規範を語らないで過ごしてきている。このことは、骨格筋の萎えた弾力(回旋筋、erector spinae at the spinous processes - rotators)とも一致する。一致すると言うよりも、Bodymap(ボディマップ)により初めてその傾向を意識するようになった。


間違ったことを言うのではないか、不適切なことを書くのではないか、誰かを傷つけたり気分を害することを言うのではないか、攻撃されるようなことを言うのではないか、などとつい考えては機会を逃す。こういう姿勢を改めて、ともかく発信していくという努力を続けたい。

2015年4月10日金曜日

私の覚書 「物語」の味付け(その4)


一連の物語が終わるにつれて情動が豊かに感じられるようになる。
その情動と体の感じがよりつかめるようになってくると、バランスの良い選択も出来るようになる。このことは、アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説と一致している。この脳科学の知見とボディナミックスの発見が見事に一致しているところである。

これまでどのように生きてきてどのような物語をつむいできたのか。また、これからどのような物語の中で生きていきたいのか、その見通しも持てるようになる。そして、そのときにはもうセラピー・セッション(面談)は終わっている。

目の前にあった問題の苦しみは終わった、そして、これからの生活の見通しも立った。でも健康的で幸せな生き方の軌道に立ち戻ったにすぎない。これからどう生きるか、チャレンジはこの世を去って行くまで続くのである。


今現在の問題が、良い生き方へとつながるきっかけとなれば、それはとても素晴らしいことである。

私の覚書 「物語」の味付け(その3)


さて、物語に伴う不自由さ・偏りは「ボディナミック自我機能」に現れる。「ボディナミック性格構造」にも現れる。「骨格筋」にも現れる。物語の中で人は行動したりしそこねたりもしている。それで、ある性格傾向、あるいは何時ものやり方としてさまざまな偏りが外部に現れでて人の目にもとまる。

ボディナミックスのセラピストは、ボディナミック自我機能・ボディナミック性格構造・骨格筋の知識をマトリックス(matrix, 母体、基盤、土台)としてもち、ボディノット(BodyKnot)というコミュニケーション・メソッド(道具)を使って対話を進めていく。クライエントとの対話と自分自身の身体や思いとの対話を同時進行で行いながら、骨格筋への働きかけやエクササイズ指導をしながらクライエントの支援を行う。

エクササイズを通してクライエントが身体の感じを取り戻していくよう、骨格筋への働きかけも積極的に行う。 物語を終わらせながらエクササイズをすることで、人としてのバランスが少しずつ戻ってくる。

そうしているうちに、次第に物語の味付けも変わってくる。その物語の味付けと香りは、料理のように他の人にもその違いが伝わって行くようになる。


そして、その分だけ「心の平安」と「生きる希望」がもどってくる。また、自分だけではなく周りの人たちへも目が向くようになってくる。家族や職場での人間関係も変わってくる。

2015年4月9日木曜日

私の覚書 「物語」の味付け(その2)


なんらかの「行き詰まり」が訪れてきたときに、人は初めて「物語」を意識し始める。目の前の出来事をきっかけとして、それまでに体験した出来事にも目を向けるようになる。それらの出来事あるいは物語には、同じような香りと味付けが漂っている。

まだ終わっていない話(未処理の出来事)であれば、丁寧に向き合ったのちに手放していきたい。援助者は、それらの終わっていない話を一つずつ取り上げて終わらせて行く手伝いをする。話には情動がともなっているので、泣いたりわめいたりもする。それはとても自然なことである。

本人にとってはなるべく触れないでおきたいことであり、恥ずかしいことだと思っていることでもある。クライエント本人の意志を尊重し、許可を得ながら共同作業を進めていく。

(援助者サイドの問題:どのような人に対してでも敬意を払って相対することができないのであれば、援助者自身の物語のプロセス(取り組み)をまずすることが先決問題である。

援助者は、自分自身が通ってきたところまでしか他者の援助は出来ない。逆に言うと、援助者本人が問題を体験し通ってきて成長をしたところまでは他者の援助が可能である。


クライエントに対する反応に援助者自身が呑み込まれたり、辛い話を聴いてその度毎に辛くてたまらなくなるのであれば、援助者はスーバーヴィジョンを受けて、まず自分の取り組みをすることが肝心である。)

私の覚書 「物語」の味付け(その1)


あなた(クライエント)の物語(ストーリー, story)を終わらせる手伝いをするという視点から取り組みの流れを考えてみる。

あなたは生まれてからこれまでずっとある物語を生きてきている。あなた独自の出来事の連続の中で今も生活している。

問題やトラブルを抱えている人。幸せな人。いずれにしても、人はある傾向の味付けをもった物語を毎日生きている。

さらに言うならば、その味も香りもいつも同じである。物語の味付けがいつも同じなのはわけがある。それは、あなたが自分で選んでいる味付けだからである。好むと好まざるとにかかわらず、同じもの似かよったものを選んでいる結果なのだ。自動的に、意識することなく選んでいる。

ところで、その味は12歳ごろには決まる。

性格構造も12歳までにその原型が出来上がる。そして、そのころある信条をあなたは持つようになる。信条は信念、思い込み、 ビリーフ(belief)などとも言われている。あなたの生活はその味付け(信条、思い込み)がベースとなっている。歳を重ねても味付けは同じであり、自分で味を変えたいと思わない限り変わることはない。(その2につづく)

2015年4月6日月曜日

私の覚書 子育て

ボディナミック自我機能の一つに境界線がある。境界線(バウンダリー)が欠落していると人間関係はかなりきつい。

また、「待てるということ、我慢できるということ」は「境界線をバランス良く管理して生きる」ということに通ずるところがあると思う。

我慢すること、待てること、これらのことは境界線の管理に欠かせない要素である。我慢すべきところで我慢ができない。あるいはしなくていいところで我慢することもある。その反動も出る。また、それらのどちらかの見分けがつかないこともあろう。

いずれにしても、その結果、人間関係は不調となる。

自分自身との関係において、また人との関係で「待てない」人、「我慢できない」人は境界線の管理が上手く出来ない人と重なる。そして、幸せになる可能性が低くなる。

お節介したいのを我慢してみる、口出ししたいのを我慢してみる。何か欲しいものを買うのを待ってみる。「待つこと、我慢すること」を工夫してみたい。待てない自分であっても、幼児期に待てる子に育ててもらっていないことを嘆いているだけでは情けない。


*物事を短絡的に理解する傾向のある母親へのメッセージ:仕事優先ではなく専業主婦として十分な時間を子どもに捧げているから、私の子どもは大丈夫だ思わないこと。過保護・過干渉の母親、自分優先の母親、スマホ依存の母親、情緒不安定などの母親 etc.には別の側面からの自省と子育て対策を促したい。自分がしていることを短絡的に「良い悪い」と思うのではなく、「どのようであるのか」を確認するとよい。すべてはそこから始まる。

私の覚書 母親が育てる vs 保母さんに子育てしてもらう

マシュマロ実験の様子をYou-tubeで見ることが出来る。
しばらく前のことであるが、そのオリジナルの実験結果について、ボディナミックのワークショップで講師のLisbeth Marcher から次のように聞いた。

我慢して待てた子は、大きくなってから幸せにになった。
我慢できなかった子は、大きくなってからいろいろと大変な人生を送ることとなった。

自分の子どもは健康で幸せになってもらいたい、と親は懸命に子育てする。しかし、なぜか結果的に自分が「毒親」となることも多々ある。懸命に働き子育てしたのにどこに「足りないところ」があったのか。

ボディナミック性格構造は健康に生まれた600人の赤ん坊を12歳になるまで追跡調査してまとめたものである。性格がどのようにできあがっていくのかが具体的にまとめてある。3歳児神話だなんだかんだという前に、この調査結果を知り、どのように子育てをしていくのかを自分で考えてみる必要がある。


ボディナミックス(Bodynamic system)は、日本では専門家にもまだあまり知られていない身体心理療法であるが、ヨーロッパでは身体心理療法のトップランナーである。ネット検索で確認できる。

私の覚書 祈り

 祈りを大切にしたい。順境・逆境のいずれであっても感謝の祈りを忘れない生活を送りたい。祈りは、自分を超える大いなる存在との対話であり、その存在のイメージは人それぞれである。(例えば、神様、仏様、観音様、大自然、大宇宙、クリスチャンであればイエス・キリスト、自助グループではハイヤーパワー。)
 人は誰でもスピリチュアル(霊的)な存在である。だから家族や友人の病気回復のためには誰でも祈るし、墓参りをするときは亡き人に語りかける。また、人の力ではいかんともしがたい状況・状態にあるときにも自然に人は祈る。

 スポーツ応援においても祈っているファンの姿は珍しくない。つまるところ、祈るしかないときには人は祈っているのである。