2015年4月19日日曜日

ケース 人としての成長に向けて⑦


 このことは、鬱から抜け出した後に始めた援助者としての訓練のなかで体験した大きな恵みの瞬間であった。その時、彼女は初めて自分自身の傲慢さを知り、謙虚さに立つということの意味を実感した。

 またその時、キリスト教で昔からいわれている「7つの大罪」の意味を知り「自己満足(自分のニーズの充足)」に生きるという「自分中心の世界」を離れていくことの意味を実感した。そして、自助グループにも通うようになった。

 このことを意識世界の側面から眺めると、K女史の回心におけるこの体験は、「生存本能(survival)」「神経反応(passion)」「エゴ/マインド(ego/mind)」という意識世界からその先に連なる意識世界の広がりの中に入っていく大きなきっかけとなった出来事といえよう。


 また、自分が神であるかのような傲慢さと支配欲でもって生きることを止めて、自分を超える偉大な存在と彼女自身の位置関係をとらえ直すということが、同時にかつ瞬間的におきたことは、彼女が体験した一つの奇跡であり「恵み」であるといえよう。それまでのように知識にふれて学び取ったことではなく、すべてのことは思いがけず「与えられたこと」であった。(完)

ケース 人としての成長に向けて⑥


 さて、彼女は抜き差しならない「鬱(depression)」の回復から数年経過して、アディクションからの回復と成長の施設において「カウンセラー・トレーニング」を開始した。

 そして、インターンシップに入ってから4年目のことである。インターンとして施設の環境整備を行いながら、彼女は、ふとある思いに囚われた。「合宿トレーニングの他にインターンシップだけでも850時間ものトレーニング期間がある。施設は遠距離にあり飛行機代もかかる。休暇中でレジャーを楽しんでいる同僚をもいるのに自分は何年も同じことを繰り返しているばかり。今やっていることの意味は何だろうか?」このことは、その時に持った正直な思いであった。


 そしてその思いの中で、廊下の壁を拭きながらふと「この中に何が入っていますか?」という問いかけが彼女の中から湧き出てきた。それに答えて、すぐに「この中に愛が入っていますように。この愛が伝わっていきますように」という祈りのような言葉が思いがけず自分の中から聞こえてきた。その言葉と同時に、胸の奥と腹の深いところが動き、そこから熱い涙が湧き上がってきた。(つづく)

2015年4月18日土曜日

ケース 人としての成長に向けて⑤


 鬱状態となって現れでた彼女の行き詰まりは、劇的に改善されていくのであるが、鬱から抜けでたという喜びのなかで「自己満足」がその後数年にわたり続くこととなる。自己満足とは、自分自身は満足するものの他の人には思いや行動が向かない状態のことである。

 そしてまた次第に、彼女は内面に目を向けるという方法によって教師としてまた援助者としての「力(power)」をつけていきたいと思うようになっていくのであった。まさにこの状態は、比較と競争の中で「力」を求めるという、あくまでも自己中心の世界といえよう。意識世界でいうなら、「生存本能(survival)」「神経反応(passion)」「エゴ/マインド(ego/mind)」ということになろう。元気を取りもどして教師としての活動をしていても、彼女の長年の「ものの見方」と他の人や物事に対する「姿勢」はさほど変えられてはいなかった。ただ彼女の心の中では、ある意味で大きな「地殻変動」のようなことが起き続けていたのである。


 その地殻変動とは、自分自身のなかであたかも冷凍状態であったような肯定的また否定的な感情が溶け出していくことであり、さまざまな思い込みに対する再検討と再構築が知的レベルと情緒レベルにおいても起きていたと思える。そして、自分自身にとどまらず他の人たちとのかかわりやその時々にもつ感情や思いも変えられ続けていたのである。(つづく)

2015年4月17日金曜日

ケース 回復への手がかり④


   さて、彼女が取り組みの目をまず向けたことは、彼女自身の父親と母親のことであった。「どのような人か、またどのような出来事がありどのような思いをもっているか」といったことを、父親と母親それぞれについて書き出した。そして、書き出したものを援助者とグループの仲間の前でそのまま読み上げ、フィードバックをもらう数回の機会を得た。「己を知る」具体的な取り組みの始まりである。


 その作業(セッション)を終えたとき、彼女をあれほどまでに苦しめ続けていた「不安」がなぜかその姿を消していた。また、同時にクリスチャンとしての信仰に目を向けるきっかけも得ていた。それは、「自分は何かに支えられている」との実感を伴う体験に恵まれたからであった。


 このことが起きたのは、取り組みを始めてからほんの数日間後のことであった。奇跡が起きたことのように思えるこの出来事は、彼女の中で正真正銘の変えようのない「事実」なのである。そして、その後「不安」の翳りのようなものを感じることが時々はあったものの、その翳りの正体を知っていくことを通して、その「事実」の意味がさらに明らかなものとなっていくのである。(つづく)

2015年4月16日木曜日

ケース 回復への手がかり③


 さて、不安とストレスの中で心身を消耗し続ける中で、元気さを装うことにも疲れ始めた頃、回復に向けての転機が訪れることになる。言葉通り、日ごとに身動きできなくなって行くのであるが、その時に神が彼女に差し伸べた手は、ある一人の回復中のアルコホーリク(アルコール依存症者)を通してであった。

 その行き詰まりに陥る数年前にたまたま知りあって友達となったその人物の導きで、彼女は自分自身に目を向ける取り組みをする機会を得ることとなったのである。それまでの知識やスキルに助けを求めることに疲れ果てており、その先に希望が見いだせないことを感じ取っていたこともあるが、外側ではなく内側に目を向けていくことの新鮮さに心を引かれていた。


 彼女には、新しいものには心を引かれるという傾向がある。それは、そのなかに人との競争に打ち勝っていく「力(power)」を感じ取るからなのである。このように、彼女にさし伸ばされた手を握る勇気はあったものの、その時点での動機としてはさまざまな欲(自分のニーズ)がみられる。しかし、ともかくこのことが、彼女のその後の回復と成長の大きな足がかりとなっていくのである。(つづく)

2015年4月15日水曜日

ケース K女史のプロフィールと行き詰まり②


 彼女の心を覆い尽くしていたのは、一言で言うなら「不安」であった。心の中の思いを家族や同僚や生徒たちに隠すことに懸命になればなるほど、不安は膨らみ、同時に身体も精神も消耗していった。人に本当の自分の思いを知られたくないとの思いが強く、医者にさえ助けを求めることを拒み続けた。そして、ますます人から離れていくことで、孤独感にも襲われるようになった。

 そして、定年までの年数を数えたとき、それからの約二十年間をとても持ちこたえることができないと弱気になった。生き恥をさらす前になんとか人知れずこの世から消え去ってしまえないものか、とも思うようになっていったのである。生活の中から楽しみや喜びが感じられなくなり、不安の中でまさにベールをとおして外界を見るような感覚をもつようになり、頭の中で回り続ける考えは、いつも「自分」のことばかりであった。食べ物も「うまい」と思うことはなくなり、鏡の中の自分の姿も貧相さがましていった。

 また、彼女は、カトリックのクリスチャンとしての洗礼をうけていたが、当時の彼女と信仰との間には大きな隔たりがあった。その苦しみを解決してくれるものとして、信仰は意識に上ってくることもさえもなかったのである。

 以上が、中年の危機を迎えた当時のK女史の姿である。(つづく)

2015年4月14日火曜日

私の覚書 ケース(事例) K女史のプロフィールと行き詰まり①

あるケースを紹介する。
「未完の物語」が終わると人はどのように変わっていくのか。「人は変えられないが自分は変えることができる」ことの一例である。

ケース K女史のプロフィールと行き詰まり①

 K女史は、現在53歳である。いまも10年前と同様に教師を続けており子供たちもそれぞれ元気に成長している。行き詰まり当時は、年齢43歳の高校の英語教師であった。結婚しており、3名の小学生の子供がいた。きまじめで内向的な性格であり、団塊の世代に属していた。彼女のそれまでの人生は戦後のベビーブームに始まる過激な競争の連続であった。受験戦争といわれた時代を懸命に乗り切り、紆余曲折を経て教師となり結婚して家庭も持った。そして、彼女なりにまじめに一生懸命に生きてきたのであるが、中年期を迎えて「鬱状態(depression)」で苦しむこととなった。


 この苦しみのなかで彼女は、教師としてそれまでに受けた国内外におけるさまざまなトレーニングや研修、精神医学や心理学、カウンセリング関連の諸知識によりその解決を図ろうと、いつもの懸命さで回復の努力を続けた。しかし、彼女の胸に重くのしかかるようないやな感覚は膨らんでいくばかりであり、エネルギーレベルも低く、何をするに身体的・精神的に苦痛を感じていた。それでも、いつもの生活をいつものように暮らすことに懸命であった。教師としての仕事も明るくさわやかに続けなくてはならないと頑張り続けていた。(つづく)

2015年4月13日月曜日

私の覚書 性格傾向(偏り)の一つ

私の性格構造の偏りは多々あるが、その中で特に改めたいと意識していることがある。それは、価値と規範に対する姿勢(Stance Toward Values and Norms)の偏りである。

ボディナミック自我機能の一つにPositioning(ポジショニング、位置)がある。この自我機能の意味するところは、a. 人生に対する姿勢、b. 力を維持すること、c. 自分の足で立つこと、d. 価値と規範に対する姿勢、e. オリエンティングである。

私は、価値観や規範に関することを語ることが弱い。人を恐れるあまり、自分の価値観やこうだと思う規範を語らないで過ごしてきている。このことは、骨格筋の萎えた弾力(回旋筋、erector spinae at the spinous processes - rotators)とも一致する。一致すると言うよりも、Bodymap(ボディマップ)により初めてその傾向を意識するようになった。


間違ったことを言うのではないか、不適切なことを書くのではないか、誰かを傷つけたり気分を害することを言うのではないか、攻撃されるようなことを言うのではないか、などとつい考えては機会を逃す。こういう姿勢を改めて、ともかく発信していくという努力を続けたい。

2015年4月10日金曜日

私の覚書 「物語」の味付け(その4)


一連の物語が終わるにつれて情動が豊かに感じられるようになる。
その情動と体の感じがよりつかめるようになってくると、バランスの良い選択も出来るようになる。このことは、アントニオ・ダマシオのソマティック・マーカー仮説と一致している。この脳科学の知見とボディナミックスの発見が見事に一致しているところである。

これまでどのように生きてきてどのような物語をつむいできたのか。また、これからどのような物語の中で生きていきたいのか、その見通しも持てるようになる。そして、そのときにはもうセラピー・セッション(面談)は終わっている。

目の前にあった問題の苦しみは終わった、そして、これからの生活の見通しも立った。でも健康的で幸せな生き方の軌道に立ち戻ったにすぎない。これからどう生きるか、チャレンジはこの世を去って行くまで続くのである。


今現在の問題が、良い生き方へとつながるきっかけとなれば、それはとても素晴らしいことである。

私の覚書 「物語」の味付け(その3)


さて、物語に伴う不自由さ・偏りは「ボディナミック自我機能」に現れる。「ボディナミック性格構造」にも現れる。「骨格筋」にも現れる。物語の中で人は行動したりしそこねたりもしている。それで、ある性格傾向、あるいは何時ものやり方としてさまざまな偏りが外部に現れでて人の目にもとまる。

ボディナミックスのセラピストは、ボディナミック自我機能・ボディナミック性格構造・骨格筋の知識をマトリックス(matrix, 母体、基盤、土台)としてもち、ボディノット(BodyKnot)というコミュニケーション・メソッド(道具)を使って対話を進めていく。クライエントとの対話と自分自身の身体や思いとの対話を同時進行で行いながら、骨格筋への働きかけやエクササイズ指導をしながらクライエントの支援を行う。

エクササイズを通してクライエントが身体の感じを取り戻していくよう、骨格筋への働きかけも積極的に行う。 物語を終わらせながらエクササイズをすることで、人としてのバランスが少しずつ戻ってくる。

そうしているうちに、次第に物語の味付けも変わってくる。その物語の味付けと香りは、料理のように他の人にもその違いが伝わって行くようになる。


そして、その分だけ「心の平安」と「生きる希望」がもどってくる。また、自分だけではなく周りの人たちへも目が向くようになってくる。家族や職場での人間関係も変わってくる。

2015年4月9日木曜日

私の覚書 「物語」の味付け(その2)


なんらかの「行き詰まり」が訪れてきたときに、人は初めて「物語」を意識し始める。目の前の出来事をきっかけとして、それまでに体験した出来事にも目を向けるようになる。それらの出来事あるいは物語には、同じような香りと味付けが漂っている。

まだ終わっていない話(未処理の出来事)であれば、丁寧に向き合ったのちに手放していきたい。援助者は、それらの終わっていない話を一つずつ取り上げて終わらせて行く手伝いをする。話には情動がともなっているので、泣いたりわめいたりもする。それはとても自然なことである。

本人にとってはなるべく触れないでおきたいことであり、恥ずかしいことだと思っていることでもある。クライエント本人の意志を尊重し、許可を得ながら共同作業を進めていく。

(援助者サイドの問題:どのような人に対してでも敬意を払って相対することができないのであれば、援助者自身の物語のプロセス(取り組み)をまずすることが先決問題である。

援助者は、自分自身が通ってきたところまでしか他者の援助は出来ない。逆に言うと、援助者本人が問題を体験し通ってきて成長をしたところまでは他者の援助が可能である。


クライエントに対する反応に援助者自身が呑み込まれたり、辛い話を聴いてその度毎に辛くてたまらなくなるのであれば、援助者はスーバーヴィジョンを受けて、まず自分の取り組みをすることが肝心である。)

私の覚書 「物語」の味付け(その1)


あなた(クライエント)の物語(ストーリー, story)を終わらせる手伝いをするという視点から取り組みの流れを考えてみる。

あなたは生まれてからこれまでずっとある物語を生きてきている。あなた独自の出来事の連続の中で今も生活している。

問題やトラブルを抱えている人。幸せな人。いずれにしても、人はある傾向の味付けをもった物語を毎日生きている。

さらに言うならば、その味も香りもいつも同じである。物語の味付けがいつも同じなのはわけがある。それは、あなたが自分で選んでいる味付けだからである。好むと好まざるとにかかわらず、同じもの似かよったものを選んでいる結果なのだ。自動的に、意識することなく選んでいる。

ところで、その味は12歳ごろには決まる。

性格構造も12歳までにその原型が出来上がる。そして、そのころある信条をあなたは持つようになる。信条は信念、思い込み、 ビリーフ(belief)などとも言われている。あなたの生活はその味付け(信条、思い込み)がベースとなっている。歳を重ねても味付けは同じであり、自分で味を変えたいと思わない限り変わることはない。(その2につづく)

2015年4月6日月曜日

私の覚書 子育て

ボディナミック自我機能の一つに境界線がある。境界線(バウンダリー)が欠落していると人間関係はかなりきつい。

また、「待てるということ、我慢できるということ」は「境界線をバランス良く管理して生きる」ということに通ずるところがあると思う。

我慢すること、待てること、これらのことは境界線の管理に欠かせない要素である。我慢すべきところで我慢ができない。あるいはしなくていいところで我慢することもある。その反動も出る。また、それらのどちらかの見分けがつかないこともあろう。

いずれにしても、その結果、人間関係は不調となる。

自分自身との関係において、また人との関係で「待てない」人、「我慢できない」人は境界線の管理が上手く出来ない人と重なる。そして、幸せになる可能性が低くなる。

お節介したいのを我慢してみる、口出ししたいのを我慢してみる。何か欲しいものを買うのを待ってみる。「待つこと、我慢すること」を工夫してみたい。待てない自分であっても、幼児期に待てる子に育ててもらっていないことを嘆いているだけでは情けない。


*物事を短絡的に理解する傾向のある母親へのメッセージ:仕事優先ではなく専業主婦として十分な時間を子どもに捧げているから、私の子どもは大丈夫だ思わないこと。過保護・過干渉の母親、自分優先の母親、スマホ依存の母親、情緒不安定などの母親 etc.には別の側面からの自省と子育て対策を促したい。自分がしていることを短絡的に「良い悪い」と思うのではなく、「どのようであるのか」を確認するとよい。すべてはそこから始まる。

私の覚書 母親が育てる vs 保母さんに子育てしてもらう

マシュマロ実験の様子をYou-tubeで見ることが出来る。
しばらく前のことであるが、そのオリジナルの実験結果について、ボディナミックのワークショップで講師のLisbeth Marcher から次のように聞いた。

我慢して待てた子は、大きくなってから幸せにになった。
我慢できなかった子は、大きくなってからいろいろと大変な人生を送ることとなった。

自分の子どもは健康で幸せになってもらいたい、と親は懸命に子育てする。しかし、なぜか結果的に自分が「毒親」となることも多々ある。懸命に働き子育てしたのにどこに「足りないところ」があったのか。

ボディナミック性格構造は健康に生まれた600人の赤ん坊を12歳になるまで追跡調査してまとめたものである。性格がどのようにできあがっていくのかが具体的にまとめてある。3歳児神話だなんだかんだという前に、この調査結果を知り、どのように子育てをしていくのかを自分で考えてみる必要がある。


ボディナミックス(Bodynamic system)は、日本では専門家にもまだあまり知られていない身体心理療法であるが、ヨーロッパでは身体心理療法のトップランナーである。ネット検索で確認できる。

私の覚書 祈り

 祈りを大切にしたい。順境・逆境のいずれであっても感謝の祈りを忘れない生活を送りたい。祈りは、自分を超える大いなる存在との対話であり、その存在のイメージは人それぞれである。(例えば、神様、仏様、観音様、大自然、大宇宙、クリスチャンであればイエス・キリスト、自助グループではハイヤーパワー。)
 人は誰でもスピリチュアル(霊的)な存在である。だから家族や友人の病気回復のためには誰でも祈るし、墓参りをするときは亡き人に語りかける。また、人の力ではいかんともしがたい状況・状態にあるときにも自然に人は祈る。

 スポーツ応援においても祈っているファンの姿は珍しくない。つまるところ、祈るしかないときには人は祈っているのである。